译介 | 岩谷徹著《吃豆人的游戏学入门》节选


3楼猫 发布时间:2023-08-27 17:32:23 作者:TaoistPunk-卷毛菌丝 Language

原作信息
原作名:「パックマンのゲーム学入門」
译文名:《吃豆人的游戏学入门》
原作者:岩谷徹(Iwatani Toru)
翻译者:TaoistPunk - 卷毛菌丝

译按

本文节选自吃豆人之父岩谷徹著《 パックマンのゲーム学入門 》(《吃豆人的游戏学入门》)。本文节选片段出自岩谷徹先生在东京大学大学院的「コンテンツプロデューサー養成講座」(内容制作人养成讲座)所讲演的内容。内容都是他根据自己超过四十年的游戏行业从业经历所讲述的经验、结论和观点。
先感慨一句:岩谷徹先生不愧是业界老前辈,创作出改变了整个游戏产业设计风向的游戏,两千年后不久就开始到教育业界任教,2020年正式退休,令人望尘莫及的从业经验和履历。因为我自己工作的原因,经常能接触到日本教育界的人士,所以也时常听到一些关于岩谷徹先生的轶事。比如2015年上映的电影《像素大战》里的角色“岩谷徹”便是以他为角色,但其实他本人在电影里出演了一名街机维修工,但是据说因为英语不好所以没能自己演自己。他还说:“不要完全相信电影里的台词,我本人不是那样子想的”(笑)。
言归正传,本文里节选自《 パックマンのゲーム学入門 》第二章的1-4节,讲述了岩谷徹先生对于游戏创作的一些最基础的看法,以及一些对新人创作者的建议,一点点他自己在创作刚开始的时候的思路分享。老实说,同作为前游戏产业从业者和现在的游戏专业教育从业者,在很多对于后辈的建议和嘱咐上,我和岩谷徹先生有非常强烈的共鸣,这也是为什么作为我们工作室的第一篇公益翻译选择这本书。这些建议看似太平常不过,甚至看起来有点“废话”和“无聊”。但,有时候又想问,有多少人不是在创作跌了一些跟头之后,回过头来看才会想起这些至简的大道呢?
不过,我个人并不赞成 “ 如果游戏没有乐趣,那么它们就没有意义 ” 的观点。所以尽管我选择翻译这篇文章,这并不代表我完全同意岩谷徹先生的每一句话。任何观点都需要辩证地看待,而且要结合自己所处的开发实际情况来辨析,切勿陷入权威的陷阱。但,瑕不掩瑜!

正文

各位游戏创作者!
※ 注:本篇节选自原书第2章 · 第1节 ※
常言道,做事情需要有“宽广的视野”,游戏创作也不例外。这些年,各种领域里被冠以创作者名号的人越来越多,不过要成为真正的创作者,我个人的看法是一定要在自己专精的领域以外,对各种事物都保持着广泛地兴趣,藉此来拓宽自己的视野。
不过当我这么说的时候,即使是对我自己来说,也太似是而非了。“不知道该怎么实际行动”应该是包括我在内的大多数人都会觉得的事情,不过我觉得最好还是可以从身边的事情做起。
比如,即便是每天乘坐的通勤电车都可以。请带着“有什么有趣的事情在发生吗?”这种状态观察周围的环境。这个“观察”其实是创作过程中必不可少的步骤。
优秀创意的秘诀不是一开始就试图想好创意,而是将观察事物作为创作的第一步。不断地看、听、经历尽可能多的事物来积累和丰富你大脑中的数据库,这点很重要。
根据这些观察得到在脑海中的数据,对它们进行筛选和组合,这时候,灵感就会以“创意”的形式结出果实。
游戏制作总是融入了创作者本人的经验和人性。创作者本身拥有的经验越多,他们就越有可能想出更多的创意,从而创造出更好的游戏。
再者,我也希望参与游戏创作的诸位,不要仅仅只把视野放在游戏本身,也要尝试把作为人自身的人格、品性,经过提炼后在游戏当中表达出来。我认为这是即便游戏技术环境无论怎么变化,都不应该忘记的基本立场。

游戏的主题是无穷的
※ 注:本篇节选自原书第2章 · 第2节 ※
要把游戏作为一件商品输出给世界,需要游戏创作者经历各式各样的阶段。即使在这种情况下,核心主题和题材导入也是必不可少的。因为没有这些东西,任何游戏都将无法运行。
我将游戏视为一种娱乐和玩耍的形式。因此,当我思考游戏题材和主题时,我并不追求游戏本身的内容以及将其复杂化(这也是为什么我不会狂热于去想象游戏的创意),而是关注去思考游戏本身与生俱来的“玩耍(或者说乐趣)”的部分。
说到底,游戏的特质(玩)到底是什么?
关于这个,我们可以在《太空侵略者》的盗版案法院判决书里一窥答案。裁决指出,“游戏”本身是一种具有目的,并按照规则在一定时空范围内完成的活动。它是一种自由、任意的行为或活动,给人以欢乐和愉悦,是一种文化现象的表现形式,可以解释为人类社会中的一种有价值的存在(节选自《東京地裁昭和54年(ワ)第一〇八六七号損害賠償請求事件》)。
这段话本身很难理解,但这里写的内容与我对游戏的定义重叠。换句话说,可以理解为“游戏都是按照一定的规则进行的玩耍”。
如果这样想的话,可以说,游戏的题材和主题的输入对象,是大致涵盖了人类所涉足的整个广阔的世界,并且存在着一种隐藏的可能性:游戏是一种可以用来表现任何事物的媒介。
也就是说,在医疗、福利领域,以及餐饮、教育、体育、信息、老龄化等与游戏的普遍印象相反的领域,都可以寻找到可用于游戏的题材。
我或许只是碰巧选择了电子游戏作为我的论据,但正如我之前所说,毫不夸张地说,游戏开发的可能性是无限的。
所以说重要的是,不受框架的束缚,以自由的双眼去观察周围广阔的世界,发掘自己的主题和题材。这是我认为作为游戏创作者职业生涯的第一步。
乐趣第一
※ 注:本篇节选自原书第2章 · 第3节 ※
从创作的角度来看,我认为有一个思维方式是最重要的,即「FUN FIRST」=乐趣第一。
如果游戏没有乐趣,那么它们就没有意义。对于创作者和玩家来说都是如此。
大众玩家觉得什么有趣让游戏变得好玩?又是什么让他们变得有趣?这些是在创作游戏的时候最优先要思考的。这是我一直以来的想法。
但是如此我们又常常陷入一种奇怪的两难境地:玩家和玩家的差别实在是太大了,设计师很难在不同的玩家群体上做出合适的取舍。所以,对于初学者和对游戏不熟悉的人来说,不如在“做一个看起来更容易上手的游戏”这件事上上多下些功夫。
另一方面,对于创作者来说,「FUN FIRST」到底意味着什么呢?
创作者的目标是创作出自己想要的游戏。要做到这一点,首先必须想清楚他们想要的游戏是为谁而「FUN FIRST」的。故而对于创作者而言,一个明确的基准是很有必要的。
我个人而言,可作为参考的基准是:「即便是平时不玩游戏的匠人也应该能够享受游戏内容的乐趣」。在我脑海里,匠人有一种「老顽固」的印象,所以他们是指那种难以提供「FUN FIRST」的典型玩家类型。通过对典型目标玩家的具体的想象,我们可以设计出能让更多玩家喜爱的游戏。
在制作游戏时遇到困难的时候,如果我们每个人都有一个「什么什么样的人」的目标形象,并明确和具体的目的,那么你会更容易找到自己的「FUN FIRST」。在这种流程思路下,创作者自然会被引导向到期望的游戏设计方向。

游戏的主题是无穷的
※ 注:本篇节选自原书第2章 · 第4节 ※
去构思一个全新的游戏规则,或者一个跌宕起伏的故事,亦或者是让玩家完全沉浸其中的新奇游戏的创意的时候,我们经常需要借助自己的想象力来完成这个过程。
但是实际上,无中生有并非是我们大脑的先天能力。科学证明,我们的创意都是来源于我们大脑中已有的知识、信息之类的数据,然后通过排列组合而形成的结果。
如是,尽可能广泛地收集信息,增加自己的选项,把有趣的点子无序打乱后再重新联结起来,这是我自己的好创意的思考方式。
我举一个在游戏开发过程里的例子。
收集信息(输入),挑选它们并将其组合成创意(输出),这个过程是从观察事物开始的
例如,有一个公司职员,每天都在来回公司和家的通勤路上观察电车上的人们。有一天,当ta环顾电车时,ta发现了许多人的共同点。此时,作为对每个人的特点以及为什么ta有这样的特点的信息进行分析的结果,最终思考出来的这个结果就成为了一个假设(想法)。这位公司职员的脑子里发生的事情是先「观察」,大约同时「分析」和思考」也在脑海里进行着。于是,一个「假设」就诞生了。
毫不夸张地说,「观察→分析→思考→假设」这个连续的流程,已经成为了我的日常思维,甚至成为了一种日常习惯。
如此,多关注一些日常生活中的琐事,会产生越来越多的创意。我认为这种思路是是源于「观察」的。
从日常观察中产生的想法往往会成为直接影响产品开发的重要途径。而后,从现实世界出发,经历过「总结假设的创造」和「实际制作的开发」后,完成创意,最后向市场推出,获得「评价」。
我在讲解这个思路的时候,常常会举自动扶梯的例子。
与升降梯相比,自动扶梯虽然去较高楼层不方便,但它是楼层间移动的非常完善的工具。这是因为,对于升降梯来说,如果停电就失去功能,而且还可能会发生被困的麻烦,但对于自动扶梯来说,即便停止了,它作为楼梯的功能仍然存在,那么这就是说它可以被评价为一个高度完整的系统。
这个随心所欲的想法也是在观察扶梯后经过多方分析和思考得出的结论。有些人可能会觉得「这啥?」,然而,注意到自动扶梯上的台阶并不重要,重要的是从不同的角度看待日常现象,对于不引人注目的细小的点进行观察。
如果你以这样的视角观察世界,你可以说你的日常生活里充满了游戏的提示。

原文

クリエイター諸君!
よく物事を成し遂げるためには“幅広い視野”が必要だと言われますが、ゲームづくりも例外ではありません。近年、様々な分野でクリエイターという肩書きの人々があふれていますが、真のクリエイターを目指すのであれば、まずは自分の分野以外のことにも常に興味を持ち、幅広い視野を身に着けてほしいというのが、私からの提案です。
このように言うと、あまりにも漠然としていて、何をどうのように行動に移せばよいのかわからないというのが私を含めて大多数だと思いますが、まずは身近なところからでよいのです。
例えば、毎日何気なく乗っている通勤電車の中でもいいのです。自分の視点で何か面白いことはないかな?というくらいの気持ちで回りを観察してみてください。この「観察」こそが、実はものづくりに欠けかせない行動です。
良いアイデアを生み出す秘訣は、最初に発想しようとするのではなく、「観察」がものづくりの第一歩なのです。まずは常々できるだけいろいろなものを見たり、聞きたり経験して自分の脳内のデータベースを蓄積し、充実させておくことが大切です。
こうした観察から得られた脳内データが、頭の中の様々な事柄を選択し、組み合わせているだけで、その際の選択センスと絶妙な組み合わせが「発想」という形で結実するのです。
ゲームの制作には、クリエイター自身の経験や人間性が合われつものです。クリエイター自身が様々な経験を積めばそれだけ様々なアイディアが生まれつ可能性があり、良いゲームに結び付くのではないでしょうっか。
またゲーム作りに関わるクリエイター諸君には、ゲームという視野だけでなく、人としての人格・品格を磨き、そうしたことも含めてゲームに反映できるようになることを期待します。これはゲームを取り巻く技術的環境が変化しても、ゲームを作る上で忘れてはならない基本的姿勢だと考えています。

ゲームのテーマは無限にある
ゲームクリエイターが、実際にゲームという一つの商品を世の中にアウトプットするに至るまでには様々な段階が必要です。そうした中でも、まずは核となるテーマや題材のインプットが欠かせません。これがなければどんなゲームも成立しないからです。
私はゲームは娯楽、遊びの中のひとつであると捉えています。ですから私がゲームの題材やテーマを考えるとき、ゲームのコンテンツ自体を追求して複雑にするのではなく(=だからマニア的な発想にはいかないのですが)、ゲームに本来備わっている「遊び(楽しさ)」という部分に注目しています。
それでは、ゲームの持つ(遊び)とは何なのでしょうか。
それは昔、「スペースインベーダー」のコピー問題で、裁判に開発した際に出された判決に一つの答えを見ることできます。その判決文によれば、「ゲーム」とは、それ自体のうちに目的を持ちながら、ルールに従って一定の時空の制限内で完了する。自由で任意な行動あるいは活動で、人間に喜びと楽しみを与えるものとして文化現象の一つの表現形態で、人間社会における価値ある存在と解することができる(東京地裁昭和54年(ワ)第一〇八六七号損害賠償請求事件 判決文より抜粋)。
そのままではわかりにくい文章ですが、ここに書かれていることは、私の考えるゲームに対する定義と重なります。つまり「ゲームとは、一定のルールに基づいたすべての遊びである」とも解釈できるのではないでしょうか。
そのように考えれば、ゲームの題材やテーマのインプットの対象は、おおよそ人間が関わる広大な世界全体に及び、ゲームという媒体を用いてどんなことも表現できる可能性を秘めているとこ言えます。
つまり、一般にゲームというイメージは対極にあるような、医療や福祉といった分野、他にも飲食事業、教育事業、スポーツ事業、情報事業、高齢化事業など、あらゆる分野にもゲームの題材を求めることができるということです。
私はたまたまビデオゲームという媒体を自らの証言の場として選びましたが、先に述べたようにゲーム開発の場は無限にあるといっても過言ではありません。
そして大切なのは、このように自分を取り巻く広大な世界を、枠にとらわれることなく自由な眼で見ることで、自分なりのテーマや題材を発見することではないでしょうか。それがゲームクリエイターとしての歩みの一歩だと思うのです。
FUN FIRST
ものづくりの観点で最も重要だと思っている考え方があります。それは「FUN FIRST」=楽しいことが第一。
ゲームは楽しくなければ意味がありません。これは、プレイヤーにとってはもちろんですが、クリエイターにも当てはまることです。
マスプレイヤーは何をもって楽しいと思うのか、何を面白いと感じるのか、それを優先したゲーム作りをする。これは常々私が思ってきたことです。
本来プレイヤーとのギャップでジレンマに陥り、適切な判断を怠ってしまう場面を目にします。初心者や日頃からゲームに馴染みの薄い人へも、ゲームは「入りやすいもの」という印象を与えられるようなゲーム作りを心掛けましょう。
一方、クリエイターにとっての「FUN FIRST」とは何でしょうか。
クリエイターは自分の望むゲームを作りたいという目的があります。それを達成するには、まず自分の望むゲームが、誰に対しての「FUN FIRST」なのかということを意識することが大切です。そのためにはクリエイター側の明確な基準値が必要であるともいえます。
参考までに私の場合の基準値をあげると、「普段ゲームなどしない職人さんでも楽しめる内容にする」というものです。私の中では、職人=「ガンコ」というイメージがあり、それはすなわち「FUN FIRST」の提供しにくい典型的なカテゴリーを指すのではないかと思っています。そうした対象を具体的にイメージすることで、幅広いユーザーにも楽しんでもらえるゲームデザインをするよう心掛けています。
もしゲーム制作で悩んだときは、各自がそれぞれ自分なりの「〇〇な人」をイメージして対象ターゲットを明確にし具体化すれば、それぞれの「FUN FIRST」が見出しやすくなるのではないでしょうか。そうした流れの中で、クリエイターの望むゲームデザインもおのずと良い方向へ導き出されることでしょう。

すべては観察から生まれる
ゲームルールが斬新で、ストーリーも変化に富み、思わず夢中になってしまうような新奇なゲームをアイディアとして考案する場合、その発想力を問われることがよくあります。
それは実は、無から何かを発想するような先天的なメカニズムではないのです。後天的に頭脳に入力された知識・情報によって得られた脳内データの中から選択し、それらを組み合わせた結果がアイディアという形になり、閃くということが科学的にも明らかにされているのです。
とすれば、できるだけ幅広く情報を収集し、選択肢を広げることが、面白いと思うパターン(組み合わせ)を数多く乱すことにつながり、良いアイディアを生む秘訣にもなるのではと考えられるのです。
ここでゲーム開発のプロセスの一例を紹介しましょう。
情報を収集(インプット)できても、それらを選択し組み合わせてアイディアにする(アウトプット)には、実際に物事を観察することから始まります。
例えば、ある会社員が毎日自宅と会社を生き来している電車の中で人間観察をしていたとします。ある日、ふと車内を見回すと、多くの人が共通して持っているあるものを発見します。この時、皆が何を持っているのかという情報、そしてなぜ皆が持っているのかという分析の結果、こういう理由が考えられるのではないだろうかと考察して一つの仮説(発想)が立ちます。この会社員の頭の中で起こっていることは、まず「観察」を行い、それとほぼ同時に「分析」「考察」と頭を働かします。そして、その結果「仮説」が生まれるというものです。
私はこうした「観察→分析→考察→仮説」といった一連の流れを、アイディア探しとして日常的に習慣づけており、常に何かしらに興味を持っているといっても過言ではありません。
このように、日常の些細な事に目を向けるだけで、どんどんとアイディアにつながっていくはずです。私は、この流れを「観察」から生まれるアイディアと考えています。
こうした日常の観察から生まれるアイディアは、商品開発に直結する大事な入り口となりうることも少なくありません。さらにそこから先は実務の世界ですが、仮説をまとめる「創造」と実際につくる「開発」を経てアイディアは完成し、最後に市場へ出て「評価」となって完結するのです。
私が、発想法を講演で説明するとき、よく引き合いに出す例として「エスカレーター」があります。
エスカレーターは、エレベーターに比べて高層階へ行くには不便ではありますが、階を移動する道具としては非常に完成度の高いものなのです。というのも、エレベーターの場合、停電してしまったら、その間機能は失われてしまい閉じ込められるなどのトラブルも発生しますが、エスカレーターの場合、停止しても階段としての機能が残るため、その意味で完成度の高いシステムとして評価できます。
この何気ない考えも、エスカレーターを観察し、様々な分析と考察から導いた結論なのです。人によってはこの結論を「なんだ」と思う人もいるかもしれません。しかし、エスカレーターの階段化に気づいたことが大事なのではなく、日常的な事象を別の視点から眺め、気づかないことに小突くようになる視点を持てるかどうかということが大事なことなのです。
このような見方さえ身に着けることができれば、何気ない日常はゲームのヒントであふれているといえるでしょう。

写在最后

能读到这里非常感谢!我在这里也介绍下, 这是一个卢德工作室日常的快速翻译小栏目,旨在为我们的读者提供一个阅读游戏相关的外文文献的平台。每次我们都将更新非常短小的一篇文章(节选自外国的文献),方便读者快速阅读和精读。大概可能会周更,在机核可能会攒2周发一次,如果不鸽的话。希望能够坚持下去!外文书籍文献昂贵,无偿翻译也不易,望各位读者们多多点赞转发支持。
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